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アネモネ手帖

小説家・三木笙子のブログ

自分の心を動かすスイッチ : 江崎誠到『運慶』

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日本史の教科書にセットで載っていた「運慶・快慶」ですが、どっちがどっちだかよく分かっていませんでした。
でも、「学校で習った」「昔聞いたことがある」というのはなかなか有り難いもので、年を取ってから、その対象に接したり、ふと耳にしたりして興味を持つことがあります。

 
よって若い時分は広く浅く、いろいろと勉強しておいたほうがいいんだろうなあと、今になって思いますが、まったく理解できなかった理数教科は、この先どんな形であっても、何かの役に立つことがあるだろうかとやや遠い目になります。


さて先日、江崎誠到さんの『運慶』を読む機会がありました。
初版は昭和39年です。

「どこへ行くのか、とにかく無限の広がりをもった、かつて見たことのない写実というものが、雲慶(運慶のこと)の像にあった。それは、調和と形式の美を崩そうとしていた。だが、崩しても崩れぬ美が、その先にあることを予言していた。」

快慶は自分の徒弟だった運慶の力量を認めます。
月日は流れ、東大寺南大門に据える仁王像の制作を委嘱された運慶は、阿形を自分に、呍形を快慶に割り当てます。

「阿形、呍形の仁王像は、二軀をもってひとつの存在となる。両者の間にいささかの断層もあってはならないのだ。ところが、運慶と快慶の作風にはかなりの相違がある。もし、両者が己の個性を生かし、それぞれの仁王をつくれば、それがいかにすぐれた彫像であっても、仏寺の守護神とはなり得ず、互いに鬼面を怒らせていがみ合う結果となるに違いない」

「やがて、快慶の手に刀が握られると、運慶がそうしているように、呍形仁王を刻むべき御衣木のあちこちを打ちはじめた。だが、その動く速度も、木肌を打つ音も傷のつき具合も、運慶のそれとはちがっていた。にもかかわらず、なぜか、二人は全く同じ作業をいとなんでいるもののようだった。二人はちがった楽器で、ちがった曲を奏でながら、それが同じ音楽に聞える不思議な演奏者のようだった。」

親子、兄弟、夫婦、恋人などではない、まったく違った人間どうしが、同じ何ものかを愛し、同じ道を歩み、ひとつの高みに達するというストーリーを読むと、私は本当に身体がガタガタ震えるほど感動します。
自分の心を動かすスイッチのひとつです。
いやあ面白い小説読んだなあ。
私こういうの大好き。
子どもの頃に覚えたおぼろげな知識が、この魂に刻まれた明確な好みにつながっていたかと思うと感慨もひとしおです。

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