アネモネ手帖

小説家・三木笙子のブログ

「たくさん本を読む」という虚しさ

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私が通っていた幼稚園の保母さんからうかがったのですが、私は字が読めない頃から本棚の前で本を広げていたそうです。
他の子どもたちが人形遊びやままごとをしている中で、ひとりじっと本を眺めていた――と聞いて、何て協調性のない人間なのかと思ったりもしたのですが、ま、生まれつき本が好きだったようです。

 
長じて小学生になると、図書館に入りびたりで本を読みだします。
で、恐らく日本のどこの小学校でも似たようなことをやっていたのではないかと思いますが、本を1冊読むとシールを1個もらうことができるようになりました。
それを教室の壁の模造紙に貼りつけて読んだ冊数をグラフ化するわけです。
当時、同じクラスにやはり本の好きな同級生がいて、自然とその子と競うようになりました。
二人だけ突出してシールが伸びていきます。
すると何を始めるかというと、冊数を稼ぐために絵本のような薄い本ばかり読むようになります。
本を選ぶ基準が、はやく読み終わることができるかどうか、ということだけになるんですよ。
あるとき、私は風邪を引いて学校を数日休んだのですが、教室に戻ってくると、ライバルのシールは遥か彼方まで伸びていました。
そのとき、

「よし、頑張ってもっと本を読むぞ!」

とは思いませんでした。
その代わり、

「今まで何やってたんだ……」

と思いました。
そのときの白々とした気持は今も覚えているような気がするのですが、当時小学4年生だった私は、本をたくさん読んで競うような真似はもう二度としたくないと思いました。
有り難いことに生まれつき好きなものがあるのに、自らその気持をぶっ潰してどうする。


小説家になり、純粋に好きな想いで始めたことでも競わなければならない場合もあるのだと分かりましたし、本はたくさん速く読めるにこしたことはないと思うようになりましたが、それでも暴走というのか迷走しているようなとき、ふっと我に返って、10歳のときの出来事を思い返します。


何やってんのワタシ。
馬鹿じゃないの。


不思議と頭が冷えて気持が落ち着きます。
余談ですが、私と競い合っていた子は、その後はあまり本を読まなくなりました。

 

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